ehnmsのブログ

ボケ防止

薄まってできる1人暮らし

文明以前、採集と狩猟を生業としていた時代では人々は集落単位で生活していた。得られた食料は分け合い、共有することで生活を営んでいった。この生活はおそらく農業を主体とした生活が成立した後もそこまで変化しなかったと思う。

 

おそらく近代化が進むにつれて、その生活単位は小さくなっていった。村を主体とした生活から一族の生活、近世に入ると1つの家庭を主軸に置いた生活、そして個人に主軸を置いた生活へと変化していった。その経緯はよくしらないけど、多分大きな流れはそうじゃないかなぁという勝手な空想。

 

1人暮らしをすることは、少なくとも近代文明以前にはあまりみられることではなかったと思う。丁稚奉公など都会の家に子供を何かの理由で出したり、ドイツのマイスター制度のワルツみたいにどこかの工房で勉強をしたり、といったことはあっただろうが、それは正確には1人暮らしではなく、別の集団へ属するだけに過ぎなかったはずだ。

 

それが出来なかった背景としては、本来的な意味で「1人」で生活することなんて到底出来っこなかったからなんだと思っている。昔はご飯の調達だってそんなに簡単な話ではなかったはずだ。現代では、ご飯なんて食べようと思えばその辺のスーパーやコンビニで買ったり、飲食店に入れば用が足りてしまう。昔どう大変だったかまでは想像が難しいが、レンジも電気もガスコンロもこびりつかないフライパンも上水道も下水道も何もかもが整備された現代では想像できない大変さがあったであろうことだけはわかる。

 

そういった点を解決するために、ある程度スケールさせることで昔は保ってきたんじゃないでしょうか。要するに、集団で生活することでその大変さを分担することで生きてきたんじゃないかなぁって。

 

現代では様々な電気・ガス・水道などのインフラ、交通インフラ、物流インフラの整備によって地域や国全体でスケールされ、個人にかかる負担というのが圧倒的に薄まっていった。そうして生まれたのが1人暮らしなのではないでしょうか。

 

このスケールということに気づいた人が、サブスクリプションサービスを始めて、世界全体で広がっていっている。シェアリングエコノミーという形態の消費活動も、元をただせば結構当たり前な話で、昔地域や家族で共有していたような財産を他の集団で共有しようというだけの話のようにも思えます。

 

別に何か教訓めいたことを言いたかったわけじゃなく、1人暮らしって現代じゃないとできないよなぁ、と思ったときに考えた話なので終わりです。

強いて何か言うなら、温故知新?